あの大震災から9か月が経つ12月、岩手県の宮古を訪ねてきました。つれあいの先輩が宮古のご出身で、被災地を訪ねてみたいという私たちのために、地元のご親戚の方に声をかけてくださったのです。
内陸の盛岡からバスで2時間、盛岡で晴れた空に粉雪が舞っても、途中の峠では吹雪いていても、海辺にある宮古の街ではあまり雪が降らないそうです。空気が心なしか盛岡より温い感じがしました。
車で宮古市内を案内していただきました。当時の映像で堤防を黒い水が乗り越えて流れ込んできた道を進んでいきます。あの恐ろしい光景が嘘のように道がきれいに清掃され、本当に宮古の中心街を襲った津波が通り過ぎて行った場所とは思えません。入り江の入口に近い地区に行くと、平坦な景色です。そこはほとんどの家が壊され、がれきがきれいに撤去された光景です。お話では、宮古は被災地の中でも割と復興が早かったそうですが、それでも、夏までは泥が残り、舞う埃でマスクが手放せなかったそうです。
続いて田老に案内してくださいました。宮古の北にある小さな漁村です。この村は10mの堤防が二重に作られた津波対策が万全と信じられていたところです。その堤防も津波によって破壊され、多くの方の命が奪われました。国道45号沿いにあった家々はまったく、まったく残っていません。古代ギリシャ遺跡と例えれば想像が容易かもしれません。土台が残っており、そこに人が生活していた形跡はわかるのですが、その上のものはまったくないのです。国道を降りるとすぐ目の前に海が広がっていますが、「以前はここから海は見えなかったんだよ。」と聞いて言葉を失いました。震災直後はがれきで埋まり、凄惨な光景だったことと思います。生活を奪われた方々の悲しみ、「無」から立ち上がろうとする苦しみを高い堤防の上から強く感じました。
私たちはボランティアに行ったわけではありません。ただ被災地を見たいという気持ちから被災地を訪れたのです。心の中では、見物人として赴く自分たちのことを後ろめたく感じていました。ならば、行かなければいいのですが、ただ行ってみたかったのです。縁あって場所は宮古になったのですが、宮古の方々は温かく迎えてくださいました。来てくれてありがとう、と。この言葉に私たちは救われた気持ちになりました。私たちは宮古を訪れることで、宮古の人と縁(えにし)を結ぶことができたのだと。旅という形で被災地を支援できることを知りました。案内していただいた方にこれから必要なものがありますか?と聞きましたら、9か月が経ちこれから本当の再建が始まる、お金が一番必要と仰っていました。私たちは宮古を発つ前に市役所に寄り義援金を寄付してきました。
心が弱っている時に、励ましに人が訪ねてくれるとうれしいものです。被災地を旅することはそういうことなのかもしれません。ボランティアに赴かなかった自分の言い訳に過ぎないと思いながらも、多くの人が訪ねていけば、街が温まり経済的な効果も生じます。宿泊した浄土ヶ浜パークホテルの部屋からは海が見えます。そして日の出が見えます。その景色は静謐で荘厳で美しいものでした。惨劇をもたらしたとは思えないほど静かな海、その海に朝日が昇る景色を見つめながら、亡くなられた方々のご冥福を祈りました。一日も早い宮古の方々の生活再建を願ってやみません。私たちはまた宮古を訪れたいと思います。
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浄土ヶ浜から昇る朝日。自然の美しさ、命を落とされた方々への冥福、
そして、いま自分が生かされていること様々な思いが湧き上がってきました。 |