本堂に入ると、畳の感触、静寂さに心が反応し始めるのを感じました。ヨガマットを敷いて、正面を見るとほのかな明かりに浮かび上がる金色の伽藍と、その下にすっとたたずむ阿弥陀様のお像と向かい合いました。「慈愛」という言葉が心に浮かんできました。
最初にお寺の副住職様から短い講話を伺いました。副住職さんと言っても、もしかしたら私よりも若い(たぶん)と思われる方です。その方が少し自信なさげに(ごめんなさい!)して下さった講話が、その時の自分の心にぴったりくるものでした。タイミングって不思議ですね。
「贈与」という仏教用語があるそうです。私たちが「贈与」というと贈与税とか贈与収賄とかあまりよいイメージがないのですが、この「贈与」には本来は「すでに与えられているもの」という意味があるそうです。(もし間違えてたらごめんなさい。) 私たちは生まれて、子供から成長し、成人していく過程で自ら様々なものを獲得をすることで社会で生きていくことを身につけてきました。しかし、よくよく考えてみると、すでに与えられているもの、言い換えれば、自立では獲得不可能なものに囲まれているのですが、それらは当たり前すぎて、その大切さに気づかないで生きています。
例えば、空気、太陽、水、身体など…数え上げれば無限にあります。
確かにいただいてばかりで全くお返しできてないです。
自分が見失っている「当たり前」に気づくと、感謝の気持ちも口ではなく、心からのものにかわると思います。
もうひとつ人間にだけ与えられているものがあるそうです。それは「尊敬をするということ」なのだそうです。尊敬する人に出会うと、その人について行きたいと思います。それが精神的成長、宗教性を高める人間の道というととです。
幸運にもせっかく人間に生まれたのだから、意識を高める道を歩き続けたいですね。どんな景色が見えるか楽しみつつ。